底辺独身喪女のチラ裏

今日も推しが尊い

「他者のため」で動くなら生半可はやめろ

なんかあまりにも酷いなと思ったからここに吐き出す。
何って、昨日からTLを騒がせている某さてー先生炎上問題である。

某さてー先生炎上問題がなんなのかわからなかった人には全く無関係な話なので、ここでリターンしてほしい。
わからなかったけど面白そうだから首突っ込むよ、って困ったちゃんは、突っ込んでもいいけど何も言わないでほしい。黙ってて。










まず前提として私は、
・昨年の帝都イベで土佐トリオ沼にドボン
・以降原作者である某exp先生の本を手に入る限り全部買う
・今回の問題の発端である例の話が入った本ももちろん去年の冬コミ時点で購入済み
なオタクであることを記しておく。


そんな私が今回の某さてー先生の絵を見たときに最初に思ったのは、「あっ、exp先生の話を元に書いた、お竜さん視点の二次創作ね」だった。
原作であるexp先生の本を読んでいたので、元ネタがそれであることは、表記ていなくても理解できたからだ。

次に思ったのは、「えっ、でもそれ原作表記してないとわからなくない?」だった。
私はexp先生の本を読んだから某さてー先生の話に元ネタがあることも、これが二次創作であることもわかる。
けれど世の中にはexp先生の本を読んでないオタクもたくさんいるのだ。私のように去年の帝都イベで土佐トリオに後頭部をしたたかに殴られて以降狂ったようにコハエースぐだぐだエースを読み漁るオタクばかりではないのだ。
だからそういう人たちは某さてー先生の絵を見て、「この素晴らしいネタはさてー先生が思いついたのね!素敵!」と考えてしまうのでは?

案の定某さてー先生へのリプライにはそんな反応が数多くあった。

ここで誤解のないように書いておきたい。
某さてー先生は原作の表記を全くしなかったわけではない。
元になった絵のツイートにツリーをぶら下げる形で、exp先生の原作を紹介している。
しかしツイッター民全てが、バズったツイのツリーまで見るわけではない。結果としてこの原作紹介ツイは、某さてー先生の例の絵のツイほど拡散はされず、情報の周知としては不完全だったと言える。


そんな光景を見てもにょったのが、exp先生のファンオタクたちである。
彼らの反応はだいたいこんな感じだ。↓

「この素晴らしいネタはexp先生が書いて自分の同人誌でかいたものなのに、某さてー先生はまるで自分で考えたように吹聴しているわ…」


わかる。
すげーわかる。その気持ちは。

自分の好きな作家さんでこれをやられたら確かにオタクとしては自分のことのように辛い。創作したことがあるオタクなら尚更だろう。

こうした背景があってか、某さてー先生へのリプライには攻撃的なものが混じり始めた。


「原作がexp先生の本であることを、絵と併記すべきではないですか?」
「これだと某さてー先生が考えた話に見えますけど、原作表記してないからただのexp先生の盗作ですよね?」
「ツリーでは見ない人がいます。一度絵を下げて、原作表記を追加してもう一度あげ直せば良いのでは?」


攻撃的なリプライはどんどん数を増やし、結果としては炎上。
25日22時50分現在、某さてー先生は例の絵のツイを消している。


さて、前提として私は某さてー先生を擁護するつもりはない。
悪気はなかったのかもしれない。単なるファンアートのつもりだったかもしれない。
もしかしたらわたし達一般オタクから見えないところで、某さてー先生とexp先生との間で、exp先生が神のような心で「ファンアート?いやもう、好きに書いていいよ!」って某さてー先生に常日頃から言ってる関係なのかもしれない。
そうだとしても、やっぱり作品に原作表記はすべきだった。某さてー先生のfgo絵がどれだけの数の人の目に触れるかは、日頃あげていらっしゃる絵のRT数やいいね数から、容易に想像できただろう。少し考えれば、十数万単位の人全てがexp先生の本を満遍なく買っているわけではないということも、想像できただろう。
今現在某さてー先生は「原作の販促目的もあった」と言っているが、であれば尚更ツリーではなく本ツイに表記すべきだった。


ということをふまえてもなお、某さてー先生攻撃勢のスタンスがわたしには納得できない。

そもそも君たちは一体何にそれほど怒っているのか?

この問題で真に某さてー先生を叱っていいのは、原作者であるexp先生ただ1人のはずだ。
我々一般外野オタクには、その行動に怒る権利はあっても、執拗に叱りつける権利はない。


某さてー先生を強火で攻撃する人の言い分を見るとだいたいこうにみえる。↓

・某さてー先生の行為で、exp先生の話が、某さてー先生が考えたように、広く誤認されてしまったんだぞ。謝れ。

すごいなあ、この人めっちゃexp先生のファンやん。


ならこの人が、そう誤認した人とやらに教えてあげればよくない?
一つ一つRTで追って、誤認した人に、「それはexp先生が元ネタですよ」って言えば誤解は解けるよ。
やらないの?
なんで?
exp先生のファンなんでしょ?赤の他人なのにexp先生に代わって某さてー先生を叱り付けるくらいの熱烈なファンでしょ?
なのに実際にexp先生の利益になる行為はしないんですか????


「exp先生のため」って言って正しさを振りかざすならさ、最後まで筋通して動きなよ。

それをやってないから「ただ某さてー先生を叩きたいだけの外野」に見えるんだぞ

他者のため、を掲げるなら、生半可な動きをするんじゃないよ。
ちょっと勘違いしてる人間が多すぎる。

君たちはexp先生ではないし、exp先生の代弁をする資格もないんだ。



あと笑っちゃったのがさ、

・私はこの話を読むためにお金出してexp先生の本買ったのに、なんで某さてー先生は無料でツイッターに掲載してるんですか?

ってやつ。

いやもうexp先生のためですらないじゃん。
自分はお金出したのに他の人はお金かけずに見れてずるい!!!が本音じゃん。
exp先生をダシにするんじゃないよ。


重ねて言うけど私個人としては某さてー先生を擁護する気は無いし、今現在時点の発言を見てもふざけたリプライしてるなあという感想しかないよ。

それをふまえてもなお、某さてー先生に怒りのリプライを投げてる人間の気持ち悪さに耐えられないだけだよ。

母親たちの戦争論

なんかあまりにも世間が過熱してる割に、あまりにも感情移入出来ないので、吐き出すために書く。

何かって、例の「おかあさんだから」騒動である。


歌のおにいさんが歌う曲の歌詞が、母親の自己犠牲をあまりにも礼賛していて到底受容できるものではないと、ツイッターを始めSNSを通して爆発的に批判の嵐が巻き起こった。

この歌詞を初めて見た時の感想は、まあ確かにステレオタイプな母親像を書いちゃってるなと言う感じだった。今はワンオペ育児というワードがときめく時代で、共働き世帯が増えたことで母親ばかりに子育ての任を与えるのはおかしい、という認識がやっと世間に認められつつある風潮だ。確かにそこに逆行する歌詞のように思える。


だが、それを差し引いてもなお、なんだかあまりにも、この歌詞への批判が強すぎではないかと思った。


なんていうか、時代を逆行しているから、だけでは済まされない熱量でバッシングされているような印象を受けた。ある意味憎悪さえ感じるほど、「お母さんだけど自己犠牲を礼賛しない」人々のエネルギーが膨らんでいるように私には見えた。

有り体に言えば、とりあえずみんな叩ければ満足なんだな、って感じ。そういう炎上の仕方に見えた。


ちなみに私は結婚もしてないし子供もいない。

犬と推しをこよなく愛する社会人の女オタクである。

だから、当事者である世間のお母様方から見れば、子供を産んだこともない気ままな独身喪女は口出すんじゃねえ引っ込んでろ、と思うかもしれない。さもありなん。

だが裏を返せば、当事者じゃない人間、つまり母親にはなれない父親、その他多くの男性、無関係な女性からして見れば、ある程度そう見えてしまう、ということになる。

なんでそこまで怒っちゃってんの????的な絵に見えてしまうのだ。

なぜなら、私は例の歌詞を見た時、時代錯誤感あるなあとは思いこそすれ、「母親に自己犠牲を強いる歌詞だなあ」とはかけらも感じなかったからだ。

いろいろあったけど、子供が好きだから、それでいいよっていう、或るお母さんの話。

そういう風に捉えた。

まさかあれを万人にあてはめろという意思がある風には見えなかった。


この騒動についてあるネットの記事は「母親たちが自分にも自己犠牲を強いてくるように聴こえる」と書いていた。なるほどそれはある程度納得がいく。独身喪女はそう思わない。だってジョブが独身喪女だから。でも、お母さん、というジョブを持っている人はそう受け止めてしまうのだ。自分は母親だが、あの歌詞が書いているようにあからさまな、子供からすれば恩着せがましく押し付けがましい自己犠牲をする気はない、という人々からすれば、それを強制するような勢力には真っ向から立ち向かわねばならないと感じるのだろう。それならあの憎悪さえ感じるバッシングにも得心する。

母親たちにとってこれは戦争なのだ。

「こうあれかし」という母親の理想像を押し付けてくる世間と、「そうはなりたくない」自分たちとの戦いだ。それは憎しみを抱きもするだろう。当然である。


ただ、世の中の母親の中にはある程度、あの歌詞のように生きている人々がいるのではないか?と、この部外者は思うのである。


自分が着たい服、食べたいもの、行きたいところ、遊びたいこと。

母親になる前に大好きだったことを、母親になった後もそのまま同じように続けられている人が、いったいどれほどいるだろう。

そして優しい人ほど、責任感の強い人ほど、そういう主張は表に出さない。自分が我慢すれば大丈夫、に慣れてしまっている人は、SNSで恨み節の一つさえ上げることもできないのではないか。


男も女も声高らかに叫ぶ前に、行きたいところに行けない、遊びたいもので遊べない、昔できたことができないその寂しさが、「母親なのだから当たり前」の一行で済まされている事実が存在するということに、一度冷静な目を向けるべきではないのか。


「そうなの、こういう我慢も確かにしてるんだよ。でも子供のことが大好きだから、それはそれでいいんだよ」と言う母親へ、「いつも頑張ってるね、すごいね」と声をかけてあげる誰かが必要なのではないのか。

誰でもいい、旦那でもいいし親でもいいし兄弟でもいいし同僚でも友達でもいいから、「お母さんだもんね」ではなくて「頑張ってるね」と言い換えればいいんだ。簡単だ。


今回問題になった歌詞は確かに時代錯誤で、したくない自己犠牲を礼賛しているように聞こえるかもしれない。

だけれどそれを、戦争の鬱屈を晴らすためだけに叩くだけ叩いて終わり、というのは少し違うんじゃないかと思う。


戦争なら相手を撃っておしまいではなく、傷ついた味方を癒すところまでカバーしてほしい。

昨今なんでも炎上しちゃうSNS界隈、底辺オタクはそんなことを思うよ。以上。