底辺独身喪女のチラ裏

今日も推しが尊い

母親たちの戦争論

なんかあまりにも世間が過熱してる割に、あまりにも感情移入出来ないので、吐き出すために書く。

何かって、例の「おかあさんだから」騒動である。


歌のおにいさんが歌う曲の歌詞が、母親の自己犠牲をあまりにも礼賛していて到底受容できるものではないと、ツイッターを始めSNSを通して爆発的に批判の嵐が巻き起こった。

この歌詞を初めて見た時の感想は、まあ確かにステレオタイプな母親像を書いちゃってるなと言う感じだった。今はワンオペ育児というワードがときめく時代で、共働き世帯が増えたことで母親ばかりに子育ての任を与えるのはおかしい、という認識がやっと世間に認められつつある風潮だ。確かにそこに逆行する歌詞のように思える。


だが、それを差し引いてもなお、なんだかあまりにも、この歌詞への批判が強すぎではないかと思った。


なんていうか、時代を逆行しているから、だけでは済まされない熱量でバッシングされているような印象を受けた。ある意味憎悪さえ感じるほど、「お母さんだけど自己犠牲を礼賛しない」人々のエネルギーが膨らんでいるように私には見えた。

有り体に言えば、とりあえずみんな叩ければ満足なんだな、って感じ。そういう炎上の仕方に見えた。


ちなみに私は結婚もしてないし子供もいない。

犬と推しをこよなく愛する社会人の女オタクである。

だから、当事者である世間のお母様方から見れば、子供を産んだこともない気ままな独身喪女は口出すんじゃねえ引っ込んでろ、と思うかもしれない。さもありなん。

だが裏を返せば、当事者じゃない人間、つまり母親にはなれない父親、その他多くの男性、無関係な女性からして見れば、ある程度そう見えてしまう、ということになる。

なんでそこまで怒っちゃってんの????的な絵に見えてしまうのだ。

なぜなら、私は例の歌詞を見た時、時代錯誤感あるなあとは思いこそすれ、「母親に自己犠牲を強いる歌詞だなあ」とはかけらも感じなかったからだ。

いろいろあったけど、子供が好きだから、それでいいよっていう、或るお母さんの話。

そういう風に捉えた。

まさかあれを万人にあてはめろという意思がある風には見えなかった。


この騒動についてあるネットの記事は「母親たちが自分にも自己犠牲を強いてくるように聴こえる」と書いていた。なるほどそれはある程度納得がいく。独身喪女はそう思わない。だってジョブが独身喪女だから。でも、お母さん、というジョブを持っている人はそう受け止めてしまうのだ。自分は母親だが、あの歌詞が書いているようにあからさまな、子供からすれば恩着せがましく押し付けがましい自己犠牲をする気はない、という人々からすれば、それを強制するような勢力には真っ向から立ち向かわねばならないと感じるのだろう。それならあの憎悪さえ感じるバッシングにも得心する。

母親たちにとってこれは戦争なのだ。

「こうあれかし」という母親の理想像を押し付けてくる世間と、「そうはなりたくない」自分たちとの戦いだ。それは憎しみを抱きもするだろう。当然である。


ただ、世の中の母親の中にはある程度、あの歌詞のように生きている人々がいるのではないか?と、この部外者は思うのである。


自分が着たい服、食べたいもの、行きたいところ、遊びたいこと。

母親になる前に大好きだったことを、母親になった後もそのまま同じように続けられている人が、いったいどれほどいるだろう。

そして優しい人ほど、責任感の強い人ほど、そういう主張は表に出さない。自分が我慢すれば大丈夫、に慣れてしまっている人は、SNSで恨み節の一つさえ上げることもできないのではないか。


男も女も声高らかに叫ぶ前に、行きたいところに行けない、遊びたいもので遊べない、昔できたことができないその寂しさが、「母親なのだから当たり前」の一行で済まされている事実が存在するということに、一度冷静な目を向けるべきではないのか。


「そうなの、こういう我慢も確かにしてるんだよ。でも子供のことが大好きだから、それはそれでいいんだよ」と言う母親へ、「いつも頑張ってるね、すごいね」と声をかけてあげる誰かが必要なのではないのか。

誰でもいい、旦那でもいいし親でもいいし兄弟でもいいし同僚でも友達でもいいから、「お母さんだもんね」ではなくて「頑張ってるね」と言い換えればいいんだ。簡単だ。


今回問題になった歌詞は確かに時代錯誤で、したくない自己犠牲を礼賛しているように聞こえるかもしれない。

だけれどそれを、戦争の鬱屈を晴らすためだけに叩くだけ叩いて終わり、というのは少し違うんじゃないかと思う。


戦争なら相手を撃っておしまいではなく、傷ついた味方を癒すところまでカバーしてほしい。

昨今なんでも炎上しちゃうSNS界隈、底辺オタクはそんなことを思うよ。以上。